主イエス様の挨拶
『すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。』マタイの福音書二十八章九節
昨夏、トイレの改修工事に行ったS市S小学校では児童会中心に全校挙げての挨拶運動をしていました。行きかう児童や先生から「おはようございます。」「こんにちは。」「ご苦労さまです。」と声を掛けられ、実に気持ちの良い校内の雰囲気でした。
昔から挨拶は心の窓と言われ、大事な生活習慣でした。しかし、街中では見知らぬ人が多くなり、また、生活が自分中心になって周囲への関心が薄れるにつれ、挨拶も次第に少なくなる傾向にありますが、自分自身日々の生活の中で大切にしたいと思います。
「おはよう。」というイエス様の挨拶の言葉は、口語訳は「平安あれ。」文語訳は「安かれ。」ギリシャ語直訳は「カイロ(喜び)」と訳されています。因みに英語(ギデオン)では「Rejoice.」(喜ばせる、喜ぶ)です。
主イエス様が十字架による贖いの御業を成し遂げられた三日目の朝の出来事です。週の始めの日の明け方、香油を塗る為に墓に行った女性たちに御使いが現われて、「ここにはおられません。・・・よみがえられたからです。」とイエス様の復活を告げました。その彼女たちへの主の第一声が「おはよう。」という挨拶の言葉でした。何という人間的な温かみのある言葉でしょうか。マタイの福音書は偉大な王の王なる主イエス様を証する書簡です。でも、ここではそのイエス様が復活の主として親しく彼女たちに現われて「おはよう。」とイエス様の方から声を掛けられています。罪を犯してしまったアダムへの最初の言葉は、「あなたは何処にいるのか。」という彼を案じる言葉でした。神様は常に私達人に関心を持たれて神様の方から声を掛けて下さっています。
イエス様の御声を聞いた彼女たちは、イエス様に近寄って御足を抱いて礼拝しました。罪深い私達を愛し、私たちの救いの為に十字架の上でご自分の命を捨てられ、今日、私達一人一人に親しく声を掛けてくださる復活の主イエス様を覚えてこの尊いお方を拝することに優る喜びや幸いは他にありません。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪の為になだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」ヨハネの手紙Ⅰ四章十節