ポシェット
私事ですが一昨日、肩掛けのポシェットを紛失しました。夕方、コンビニで買い物をしようと車を降りる時に気が付きましたが、仕事場に置いたままかなと思いそのまま家に帰りました。翌朝、思い当たるところを探しましたが、見つかりませんでした。ポシェットの中には、普段必要な筆記用具、認印の他に現金数万円と銀行の通帳、キャッシュカード、クレジットカード、各種資格者証明書カード、聖書学びのメモ、福音小冊子など私の大事な物が入っていました。
昨日の行動を思い返してみたのですが、何処に置いたのか、何処で無くなったのか思い出せません。年のせいなのか、集中力がなくなっていたためなのかわかりませんが、いくら捜しても見つかりません。諦めて置き引きも考えられるので、直ぐに携帯電話で銀行のキャッシュカードとクレジットカードの利用停止と再発行手続きをしました。幸いに不正利用はされていませんでした。
その後に近くの交番へ行き、運転免許証の遺失届を出しました。それから、支所へ行き、健康保険証再発行の手続き、免許再交付に必要な住民票を取り寄せました。その後、運転免許センターまで行き、申請し再交付をうけました。昨日に郵便局でキャッシュカードの再発行を受けました。身から出た錆びではないですが、一時ショックで落ち込み、また、
後処理で色々と大変でした。
創世記四十三章のヤコブの記事の中に、「私も失う時には失うのだ。」というヤコブの告白があります。ヤコブの人生の前半は、人間的な知恵や力によって財産、妻たちや子どもたち等色々な物を獲得していきましたが、後半はそれらを一つ一つ失っていく人生でした。ヤコブは、滞在先パダン・アラムの伯父ベトエルの所から故郷のカナンへの旅の途中で最愛の妻ラケルを亡くし、カナンでは最愛の子ヨセフを失い、そしてこの時に大きな飢饉の中でラケルの形見その弟ベニヤミンをも失おうとしているところです。
信仰的な面で考えると、前半は下り坂、後半は徐々にきよめられていく上り坂です。その過程は私たちの人生そのものではないでしょうか。若い時は知力、体力とも充実していて行きたいところへ行きやりたいことをして、能力や資格、財産や地位、名誉、家族、友人等様々なものを獲得しますが、歳を取るにつれて知力体力が衰え、病気を患い、愛する家族や親族を亡くして行き、伝道者の書十二章に書かれているように人生の終わりを迎えます。しかし、信仰の人ヤコブは肉(人間)的、この世的なものを失うにつれて彼の霊性は高められていきました。
福音書の中に、ある裕福な青年役人の話があります(マタイ十九章、マルコ十章、ルカ十八章)。彼は、イエス様の元に来て「永遠のいのちを得る為には、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と質問しました。主は答えて「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。その上で、わたしについて来なさい。」と言われました。残念ながら彼はそうできずに去っていきました。彼は、大事だと思っていた自分の財産に捕えられていたのでした。
逸話に、U.S.Aフロリダで大きなハリケーン通過後にあるご婦人がご自宅に戻ると、家の建物は跡形もなく吹き飛ばされていました。大型の重い冷蔵庫までも。一角にトイレの壁一面だけがぽつんとそのまま立っていて、その壁には「主は与え、主は取られる。主の御名は褒むべきかな。」ヨブ記一章二十一節と書いたみことばの紙がセロハンテープで貼ってありました。それを見た彼女は思わずその場に跪き、「私の家は壊れて全て無くなりましたが、私の聖所は壊されていません。」と告白して主を賛美しました、という話しがあります。
今回の事は、私に持ち物の管理をちゃんとしなさいよという厳しい教訓でした。そして、失くしたポシェットは私自身だったかもしれません。私たちが、神様から救い、恵み、全ての良きものをいただく原則は何でしょうか。それは、自分を失う事、自分を捨てることに尽き、そして神様を信じ、信頼し、褒め称えることにあることを教えられる貴重な経験でした。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
マタイの福音書十六章二十四節二十五節